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邪神の秘密

 邪神とは、いったい何者なのか?現在、百花繚乱、色々さまざま、種々雑多、あれこれと諸説があるが、邪神研究の第一人者であるところの「まろkawakami」の一説を取り上げてみることにする。
 なお、邪神についての研究はまだ始まったばかりであり、知られていないことも多く、新しい秘密が見つかり次第修正していくつもりであるので、ドラマキャンプの掲示板に諸君の邪神に対する情報なり、自説を書き込んでほしい。
邪神とは
 わんぱくキャンプに登場し、地球を破壊すべくさまざまかたくらみを企てるボスキャラである。

神話に見る邪神善養院と邪神わんぱくキャンプから邪神を探る
現在までにわかっている邪神の正体とは



神話に見る邪神

 邪神とはいったい何者なのか?一般的には、手下を使い、人々の心を惑わせて地球の破壊を企てている存在といわれている。では、邪神は何のためにこの地球を破壊しようとしているのであろうか。
 世界各地に残る神話や伝説の中に邪神の姿を垣間見ることができる。ここでは、神話や伝説の中から邪神の正体に迫ってみよう。
 その前にひとつ、邪神という名前について考えておきたいと思う。なぜならば、神話や伝説の中では、邪神という名前では出てこないからである。「邪神」という名前は、現在の私たちがつけた名前である。邪まな神と書いて邪神という。邪まな神になぜ手下がいたり、信奉すら民がいたり、人々が惑わされるのであろうか。そもそも何に対して邪まなのであろうか。ここで、邪神を音だけで考えてみると「じゃしん」となる。これに別の漢字を当てはめてみると「蛇神」という言葉が浮かび上がる。この蛇神という言葉こそが神話や伝説を見ていく上で大きなキーワードとなるのである。

 旧約聖書
 旧約聖書の中で、アダムとイブという最初の人類が現れる。そのころの地球は、エデンの園とよばれる楽園であった。そこに1匹の蛇が現れ、人類に知恵の実を与えた。そのことによって人類は、エデンの園を追われ、死を余儀なくされ、新しい生命を生み出さなければならなくなった。それが人類の原罪と呼ばれるものである。
 この蛇こそが蛇神(邪神)であり、人類が手にした知恵は、やがて文明として花開き、人類に大いなる恵みをもたらすこととなった。その一方で、古代文明の多くは、森林を破壊することによって栄え、やがてその都市自身をも破壊することになる。そして後に残されたものは、砂漠化した土地であった。現代に目を向けてみると、前代未聞の文明がある。そして、その文明によって引き起こされた環境破壊、自然破壊は人類そのものの存続を危うくし、地球をも破壊しようとしているのは周知のごとくである。
 アダムとイブこそ最初の邪神の民であり、われわれはまさにその末裔なのである。

 日本における神話
 神と呼ばれるものの中にスサノウというものがいた。このスサノウこそ、邪神がもたらした文明に対抗するものであった。髪はぼさぼさ、髭は伸び放題、野蛮なの暴れものとして描かれるが、スサノウの姿、スサノウの力を見てみるとまさに自然の姿であり、自然がもたらす脅威である。
 スサノウが最初に殺したものは、機織の娘であった。古代、機織は文明の頂点にあった高度な技術である。そして、その機織の娘を殺すということは、文明への対抗としての象徴と見ることができる。次にスサノウが殺したものは、古代文明のひとつである出雲の国にいたヤマタノオロチである。ヤマタノオロチが邪神であることは自明の理だあろう。その姿は、八つの頭を持つ蛇であり、その身の中に武器としての文明の頂点にあった鉄剣を持っていたのである。
 日本の役割について少し考察してみよう。日本は古代、豊葦原の中津国とか日出る国とか呼ばれていた。この古名に日本の役割を見出すことができる。豊葦原の中津国とは、たくさん葦の生えている原の中にある国という意味であるが、自然の豊かな国ということである。もう一つの古名「日出る国」は、太陽が昇る国という意味であり、夜の世界(死)からの誕生を表している。日本の創生神といわれるものにイザナギ、イザナミというものがいた。イザナミが死に、イザナギが黄泉の世界を訪れたとき、イザナミは死を誓い、現世(日本)に戻ったイザナギは生み出すことを誓うのである。われわれは、旧約聖書における生と死という原罪を思い出すことができるだろう。日本は、新しい生命を生み出すことを役割付けられているのである。このことは、ノストラダムスの諸世記の中にも述べられているのであるが、「わんぱくキャンプから邪神を探る」において、もう一度考えてみることにする

民間伝説のおける邪神とスサノウ
 現在において蛇は嫌われがちであるが、古代においては農作物を害獣から守るものとして神として祭られていた。農作もまた、自然を破壊し、人間に都合のよいものだけを作る文明である。現代においても白蛇として祭られるなどその名残を見ることができる。蛇の皮を持っているとお金がたまるという迷信を聞いたことがないだろうか。お金こそ現代の文明を支えるものであり、お金のために働き、技術文明を発達させているというのは、言い過ぎであろうか。
 邪神が現れる福山という場所は、かって備後の国と呼ばれていた。さらに古代においては、吉備の国の一部であったと思われる。その吉備の国には、桃太郎伝説というものがあるが、誰でも一度や二度は聞いたことがあるのではないだろうか。桃太郎が、犬、サル、キジを連れて鬼を退治に行くという話であるが、鬼を思い起こしてみるとその野蛮な暴れものの姿は何かに似てはいないだろうか。そう、スサノウを思い起こさせるのである。スサノウの子孫である鬼は、人間の文明に対して抗い、文明の象徴である財宝を奪っていくのであるが、日本古代においてもっとも文明を発達させた大和朝廷の一人として桃太郎が登場するのである。彼が率いてきた、サルとは、人間そのものの象徴であり、犬は、その人間に従うもの、キジは、人家のそばにも平気で現れるというキジの特性を見たとき、人間のそばにある自然、すなわち人間によって作り変えられた人口の自然の象徴と見ることができるだろう。また彼らをしたがわすために使われたキビ団子は、粉にしてさらに手を加えて丸い団子にした文明の集大成であり、これも知恵の実の一つとしてみることができる。かつて文明を倒した自然の象徴たるスサノウが、桃太郎の時代においては鬼として貶められ、文明の象徴たる桃太郎によって退治させられてしまうのである。以後世界は、現代文明に向かってひた走ってきたのである。


善養院と邪神

 福山の北部にある仙養ケ原という場所に、善養院という道士がいたと神石郡誌に記されている。善養院のもつほら貝は、その音は十余里の遠くまで響き、麓の村々のなべ釜は壊れるほどであったという。江戸時代の初期、福山の城主となった水野勝成がこのほら貝を欲して善養院を召抱えようとしたが、「このほら貝は、一度吹けば死者を生かし、障魔を退散させる。私は、法を守り、衆生済度を以って(みんなの幸せを願って)業となす(生き方としている)然るに、今あなたはこのほら貝を人を殺す武器として欲しようとしている。はなはだよろしからず(とてもよくないことだ)。活人のほら貝を変じて殺人のほら貝にしようとは思ってもいない。たとえ殺されようともあえて命令には従わない。」といった。水野勝成は大変怒って、善養院を切り殺してしまったところ、以後凶作が相次いだ。そこで人々は、祠を建て五穀豊穣の神として祭り、毎年盆の15日には、円陣を組み終夜踊りつづけている。とも記されている。
 善養院は実在した人物であるが、ほら貝は、生命の源である海として捕らえることができよう。その音が壊すものは、文明技術を駆使して作られたなべや釜であり、自然の持つ治癒力・再生力をも象徴している。水野勝成は当時の文明の最先端を行く武士であり、福山の豊かな海を埋め立てて開墾した(これも自然破壊の一つとしてみることができるだろう)人物としても知られている。五穀豊穣の神として奉られた善養院は、豊かな自然の実りの象徴としてとらえることができるだろう。水野勝成がその自然を自由にしようとしたとき、凶作という形でしっぺ返しを食らったのである。
 さて、善養院がすんでいた仙養ヶ原は、また邪神が最初に出現した場所でもある。仙養ヶ原の位置的関係を見てみると面白いことがわかる。スサノウは、イザナミを求めて出雲の国へいったのであるが、ヤマタノオロチを倒した出雲の斐伊川と仙養ヶ原を結んだ調度中間にイザナミが眠るとされている比婆山があるのである。ヤマタノオロチの化身である邪神が比婆山を境としてちょうど反対側に出現したことに因果を感じるのは私だけであろうか。また比婆山と仙養が原のライン
上には、日本のピラミッドといわれる葦嶽山があり、仙養が原よりさらに延長していくと芦原、中津原付近を通り、吉備の国と備後の国の境に至るのである。
 さらに、福山という場所は、穴の海と呼ばれる深い湾がおくまで入り込んでいた。その湾沿いと思われる場所に葦原とか中津原という地名が今でも残っているのは、単なる偶然なのであろうか。また、スサノウがこの福山にやってきたときスサノウを受け入れたものは、茅(葦の仲間)の輪を掲げ、受け入れなかったものはスサノウの軍勢に倒されたという伝承がある。そして現代でも、茅の輪くぐりという祭事があり、穴の海の沿岸と思われる地域では、玄関に茅の輪を掲げる家が多い。


わんぱくキャンプから邪神を探る

第1回わんぱくキャンプ
 ここでは、邪神はまだ誕生していない。しかし、何やら未確認物体が現れたらしいということで、わんぱく達は探検に出かけたのであるが、邪神出現の前兆現象であったのかもしれない。

第2回わんぱくキャンプ
 この回も邪神は出現していない。しかし闇の奥深く邪神は誕生し、出現の機会を狙っていたのである。

第3回わんぱくキャンプ「仙養ヶ原伝説」
 仙養ヶ原の土地開発のため、ほら貝が行方不明になった。そのために女鍋山の麓の蛇の池に住んでいた大蛇がよみがえり、悪さをはじめたのである。そこで復活した善養院に頼まれてわんぱく達は、ほら貝を見つけ出し、邪神を倒したのである。

 善養院と大蛇が復活してきました。この大蛇は、仙養にある伝説の中で、百姓夫婦の娘に化身して現れ、大蛇の正体がばれることによって倒されたといった伝説です。蛇神を文明としたとき、人間の申し子として文明は現れ、その文明の正体を知るとき、人間は文明を倒さなければならないのでしょう。これ以後、善養院は邪神を倒すためにわんぱくとともに活躍するのである。
 さて、この大蛇が邪神そのものであったのかあるいは邪神の眷属であったのか、今の情報でははっきりしていない。

第4回わんぱくキャンプ「邪神を倒せ」
 はるか昔、自然を愛する民とすべてを破壊する邪神の民の間で激しい戦いがあった。そして現在、邪神が再びよみがえり始めようとしていた。そこでわんぱく達は、自然を愛する民が残した神器を見つけ出し、邪神を倒したのである。

 遂に邪神が出現したのである。そして、邪神の呪いであったのか、わんぱく達を阻むかのごとく、仙養ヶ原へ向かう道中雨が激しく振り続いた。また通常では考えられないようなアクシデントにも見舞われつづけた。そして邪心の民は逃げ去り、、邪神を倒したと思った後、あざ笑うかのごとく再び雨が降り始めたのである。一方、生と死という二つの原罪を人間は背負っているが、今述べたことが死の原罪に所属する呪いとすれば、生に対する魔力も働いたのである。邪神を生み出したスタッフ、幻のテーマソングとなった歌を作詞した仲間、など二人の仲間の結婚が決まり、さらに一人は当日結婚式が行われるという力も働いたのである。邪神に深くかかわったものにこの力はこれから後も続いていくのであるが、そのことにスタッフが気がついたのはまだ何年も立った後のことである。

第5回わんぱくキャンプ「勇者への道」
 邪神の出現を危惧した善養院は、自然を愛するわんぱく達を育てるために、道場を開くことにした。修行も終わりに近づいたころ、突然邪神が善養院をさらってしまったのである。わんぱく達は、今までの修行を生かして、善養院を助け出した。

 仙養ヶ原から福山の西南にある金江と神村の境にある場所に変わりました。この地に変わったことに深い意味があったのですが、そのことに気がつくのはまだずっと先のことである。
 さて、このキャンプでは、ネイティブアメリカンと呼ばれるジェロニモなる人物が登場してきます。このことで、わんぱく達は、世界各地に自然を愛する民がいることを知ることになりました。このジェロニモ今後のわんぱくキャンプの中で時々登場することになっていきました。
 このわんぱくキャンプでは大いなる力を見せ付けられたキャンプでもありました。この年大きな被害を与えた台風10号が中国地方を直撃したのです。文明の最先端を行く交通手段は、飛行機、新幹線、バスとすべてとめられてしまいました。これが邪神の呪いだったのか、わんぱく達に大いなる試練を与えた自然の偉大なる力だったのか、今となっては知るすべはありません。しかし、これを乗り切ったときわんぱく達が大きく成長うしたことを考えれば自然の大いなる試練と考えるのが妥当だと思えます。

第6回わんぱくキャンプ「ネバーランド」
 ネバーランドでは、邪神がフック船長を操って悪さをしてた。わんぱく達がやってくるとさっそくわんぱく達の邪魔をし始めた。そしてとうとう最後には、ティンカーベルをさらってしまったのである。しかしわんぱく達はさまざまなトラップをクリアーしながら、フック船長を改心させ、ティンカーベルを助け出した。

 この回ではさまざまなキャラクターが登場してきました。そして、邪神には手下がいることと人の心を操る力があることが判明しました。邪神や邪神に操られた人々は、なぜわんぱくに弱いのでしょうか。わんぱく達は生まれてからまだ余り時間がたっていません、このことは、邪神がもたらした知恵の実にあまりさらされていないことを意味します。長い間知恵の実にさらされた大人達は、知恵の実がもたらす便利さから逃れることは困難なものがあります。そのことが大いに関係しているように思われます。しかし、今の世の中を見てみると、大人達は子どもたちによりたくさんの知恵の実を食べさせようとしているようにしか思えません。そして子どもたちの心を蝕んでいっています。わんぱくという言葉を聞かれなくなってからもう久しくなるように思えます。

第7回わんぱくキャンプ「ファイナルパラダイス バージの森」
 邪神と邪神の民の手によって、ファイナルパラダイスとよばれるバージの森が今まさに破壊されようとしていた。わんぱく達は、善養院、森の守り神アーク、ぞして精霊達と邪神に対して最後の決戦を挑み、邪神を倒したのである。

  この回の登場人物や地名には深い意味があるようです。ファイナルパラダイス(最後の楽園)バージの森は、人間の文明の入らないバージンの森であり、森の守り神アークはアース(地球)であり、これ以降善養院とともに登場することになります。森で育った人間アイカは、地球環境を守る漫画「地球の秘密」を書いて12歳で逝ったの坪田愛華ちゃんからもらいました。彼女は、スサノウがヤマタノオロチを退治した島根県斐川(ひかわ)町の子であり、スサノウの血をひく子であったのかもしれません。

第8回わんぱくキャンプ「わんぱく村は大騒動」
邪神を倒した後のお話です。わんぱく達は、子どもたちの国わんぱく村を作りました。

 邪神のいない平和な世界です。

第9回わんぱくキャンプ「イーハトーブのお話」
 死んでしまったクランボンをよみがえらせ、いなくなったカムパネルラを探しにイーハートーブの森へきたわんぱく達でしたが、カムパネルラは倒したはずの邪神が銀河鉄道を使って死の国からよみがえり支配するカマジン国につかまっていることを知った。邪神からカムパネルラを助け出したわんぱく達は、十力の金剛石によって自然と生命の秘密を知ることになった。

 死んだはずの邪神が再びよみがえってきました。その手段として、文明技術の結集である鉄道が使われました。どうやら邪神は何度でも生き返る力を持っているようです。しかしまた、森の守り神アークもよみがえってきました。自然と文明、生と死は表裏一体であり、輪廻転生のようです。この回では、十力の金剛石によって、自然のと生命の秘密の一部が明らかになりました。十力の金剛石は露であり、青い空、輝く太陽、丘を駆け抜ける風、自然界すべてが宝物なのです。そして、一度死んでしまった命をよみがえらせることはできないけれど、命は大地に還えり、新しい命へと引き継がれていくのです。
 さてこの世界の元となった物語を書いた宮沢賢治を調べていくと、土とともに生きた人間であり、物事を自然の側から見ることのできる人間であった。彼もまたスサノウの血をひくものであったのかもしれません。
*スサノウがいた出雲と宮沢賢治の生まれた東北地方は、ともに古代大和朝廷にあがなう民族がすみ、言語体系が似た地域があることを付しておく。

第10回わんぱくキャンプ「星の王子様」
 星からやってきた星の王子様の話によって、わんぱく達は、邪神が人間を滅ぼすといわれているバオバブの木の種を使って地球を破壊しようとしていることを知りました。そこでわんぱく達は、邪神を見つけ出し、バオバブの実を取り戻し、邪神の企てを阻止しました。

 わんぱく達は、星の王子様の登場によって、地球以外にもぱ世界があることを知りました。バオバブの木とはいったいなんだったのでしょう。そして邪神はなぜバオバブの木を盗んだのでしょうか。実際のバオバブの木は、今地球で自然が残っているといわれているアフリカのサバンナにある木です。この木が繁殖するとすべての生き物が死滅すると語られていますが、本当なのでしょうか。広い草原の中にあるバオバブの木が作る木陰の中にいる自分の姿を想像してください。文明から離れて自然と一体になりゆったりとすごしている自分が見えるのではないでしょうか。この地球にバオバブの木がいっぱい繁殖したとしたら、その木陰で人々が集うとしたら、それは文明の終焉を表すのではないでしょうか。文明をもたらす邪神にとって、それは致命的なことと思われます。それを阻止するためには、邪神にとって、盗むしかなかったのでしょう。あるいは、バオバブの実は語られていたごとく本当は知恵の実であり、根付いた文明は、あっという間に根をはり、すべての生き物を死の淵へと追いやってしまうものだったのでしょうか。

第11回わんぱくキャンプ「もののけ姫」
はるか東の国に住むアシタカの子孫アサテカが不思議な呪いを受け、その呪いを解くために、風の谷のたたらの里にいるわんぱく達の元へやってきました。一方この里に昔から奉られている父子をもたらすといわれる獅子神の首を狙う邪神の手下師匠連がいました。わんぱく達は、師匠連達から獅子神の首を守りながらアサテカの呪いを解いていきました。

 日本には古来より言霊思想というのがあります。言葉は命を持ち、意味を持つということです。原作のもののけ姫を見てみるとそれが随所に見られます。祟り神というのが出てきますが、たたら(製鉄)によってそれは引き起こされています。たたらとたたり、似た響きがあります。本物語でも、原作のテーマにもなっていますが、この国をまっすぐ見つめることで祟りが解けるといっています。まっすぐ見つめることによって見えてくるものはいったい何でしょう。それは日本の未来、明日の姿が見えるのではないでしょうか。原作の主人公の名前は、アステカといいます。明日てか、と最後に疑問符としてのテカがついているのはなぜでしょう。彼はどんな未来を見たのでしょうか。ちなみに本キャンプでは、明後日(あさって)かといいます。もう一人の主人公はサンといい、英語で言えば太陽でり、古来、日本において女性は太陽であったといわれています。また、また神話の中に出てくる太陽神アマテラスは、女性の神です。
 次に、不死をもたらす獅子神の首とは、それを求める師匠連とはいったいなんだったのでしょう。知恵の実がもたらした文明は、必ず形を伴います。そして形あるものは、いつかは壊れていく定めにあります。これが原罪の死の持つ一面でもあります。再び同じ物を作ったとしても、それは壊れてしまったそのものではありません。失われたものは決して取り戻すことはできないのです。それゆえ文明は不死を求めてやまないのです。人間にとって文明の頂点に立つものは誰でしょう。その時代の支配者層こそ文明の頂点に立つものでしょう。かって秦の始皇帝は、この日本に不死の霊薬を求めて徐福を遣わしたという説があります。

第12回わんぱくキャンプ「しらゆきひめXデー」
1999年7の月は、地球が恐怖の大王によって滅ぼされるとノストラダムスの諸世記の中に記されている。しらゆきひめを見つけることができれば、恐怖の大王の手から地球を救うことができることを知ったわんぱく達は、しらゆきひめを見つけるために行動を開始した。そして遂にしらゆきひめを見つけたわんぱく達の手によって地球はすくわれたのである。また、邪神の母、青空ひめの出現によって邪神さえも改心したのである。

 恐怖の大王と呼ばれるものの正体は、邪神でありました。ノストラダムスの諸世記の中に東方の王が地球を救うということが書いてあります。東方の王こそ日出る国の日本を示す言葉であり、それは死や破壊に対する生命の誕生を表しています。また旧約聖書を書いた民族の一氏族がこの日本にやってきたという説があります。
 諸世記を書いたノストラダムスはフランスの人であり、隣国のドイツの伝承の中にしらゆきひめの話があります。
 さて、しらゆきひめが現れた場所は、神村の竜王山といいます。この地は、神が降り立った場所といわれ、蛇神の化身である龍と太陽神アマテラスが祭ってあります。グリム童話の中でしらゆきひめは、毒りんごを食べて仮死状態になります。最初の人類イブが手にした知恵の実はりんごの形をしていました。しらゆきひめが食べたりんごも毒を持った知恵の実だったのかもしれません。なぜなら、産業革命がヨーロッパから起こったことは歴史の記憶に新しいことであり、産業革命がもたらしたものは、酸性雨や二酸化炭素による温暖化、フロンによるオゾン層の破壊、ダイオキシン、公害といった人類にとっても自然にとっても毒となるものだったからです。
 童話の中でしらゆきひめが蘇生した直接の原因は、王子様に出会うことではなくて、王子に抱き上げられた衝動でりんごを吐き出したことでした。私達人類は、この地球がもう一度生き返るためには、私たちが手にしている文明という知恵の実を吐き出すことかもしれません。
 邪神の改心についても述べておきましょう。邪神の母の名前は青空姫といいました。青空にあるものといえば太陽です。太陽神は、アマテラスという女神であることは今までに述べてきたとうりです。邪神のいるこの地球は、太陽を母として生まれてきました。その意味から見れば、地球そのものが邪神と言えるかもしれません。今私達は、文明の持つおろかさに気づき、自然を守り回復するためにさまざまな活動を行っています。それが今回の邪神の改心につながっているものと思われます。


現在までにわかっている邪神の正体とは

 邪神とは蛇神であり、その存在は、アダムとイブのときより人間の存在とともにあった。邪神がもたらすものは文明という名の知恵の実であり、破壊は目的ではなく、結果として現れるものである。生と死という原罪を人間がその身のうちに背負っているのと同様に、邪神に目的があるわけではなく、それは宿命とか業とか呼ばれるものであろう。
 ヨーロッパの石工の技術集団から発生し、今や世界的な規模でメンバーを持つある団体の紋章は、蛇を使っている。知恵の実は、諸刃の剣である。薬は毒になり、毒も使い方次第で薬になるのと同様に、文明によって自然や人類そのものを破壊していくだけでなく、知恵を使うことによって破壊を最小限に押さえることができるはずである。
 邪神は人間が人間としてある限り、決して消滅することはないだろう。死んだように見えたとしても再びよみがえってくる。改心したとしても、われわれ人間次第で再び牙をむくこともあるだろう。私達はその心の中に邪神の民となる資質を持っていることを忘れてはならない。知恵の実が諸刃の剣であることを忘れたとき、私達は知らず知らずのうちに邪神に組しているのである。もう一つ、われわれ人間は、スサノウの血をもその身のうちにもっているのである。その血を自覚したとき、知恵の実という諸刃の剣を扱えるようになるのかもしれない。
 かってこの地球上には、さまざまな種が存在し、やがて絶滅していき、新たな種が生まれてきた。われわれ人類もこうして生まれ、いつか消滅するときを迎えるのであろう。今の世界を見るとき、知恵の実で己自身や他の種を殺さないことを願うばかりである。しかしそれも悠久の時の流れからすれば小さなことなのかもしれない。地球自体も、母なる太陽もやがて消滅の時を迎え、どこかで新たなる星が生まれていくのであろう。そして、宇宙さえも終焉にむかい、ビッグバンの後新たなる宇宙を作っていくのである。